玄中寺について

 

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釈尊の悟った仏教は、仏滅六百年の二世紀~三世紀に活躍した龍樹菩薩と、四世紀の天親菩薩によって大乗仏教となり、中国に伝わりました。

476年頃に中国山西省の五台山に近い雁門に生まれ、北魏仏教の中心地で修業した曇鸞大師は、大集経の注釈を作る途中で病魔に襲われたので道士を訪ね、仙術を受け不老長寿の術の書(仙経)を得て、これによって長寿を得て仏教を考研できると喜び勇んで北魏の都洛陽に帰ってきました。

曇鸞がインドから洛陽に来て訳経事業をしていた高僧の菩提流支に仙経を見せると、「少々長生きをして何になる。真の長生不死の法を求めよ!」と諌められ、観無量寿経を渡されました。

曇鸞は、これによって浄土教を考究し、天親菩薩の浄土論に注釈をして次のように説かれました。これが曇鸞大師の浄土教学です。

私の煩悩と仏の悟りは氷と水の関係で「煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみつ”となる」氷が太陽の熱と光によって解けて水になるように、私の迷いの煩悩は、阿弥陀仏の慈悲である無量寿(いつでも)と知恵である無量光(どこでも)によって仏の悟りになりました。鉄は鉄を引き付ける力はないが、磁石は鉄を引き付ける。鉄に磁石が付くと鉄が磁石になり他の鉄を引き付けます。私は他人を救済する力はないが、仏様が私に力を与え、私と仏が一体になると、私は他の人を仏にすることができます。

 


 

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玄中寺は、中国浄土教の祖師曇鸞大師が中国の山西省交城県石壁山の南に建立した寺です。北魏の末、曇鸞大師は并州の大厳寺を出て、この玄中寺に移り浄業を修め、梁の武帝や東魏の孝静帝の帰依を受けました。

隋の大業年間に、道綽禅師が玄中寺の寺内に建つ曇鸞大師の碑文を読んで浄土教に帰依し、当地に浄土教九品道場を営みました。さらに善導大師が、この玄中寺に道綽禅師を訪ねて、その門に投じ、以後十年間教化を受けられました。このことから玄中寺は中国浄土教の祖庭であると言わております。

しかし元の時代には、この寺も禅宗に変わって、永寧禅寺と言われていましたが、我が国の仏教学者によって玄中寺であることが証明され、今日に至っております。 現在は「浄土古刹」と書かれている山門も、最近までは「永寧禅寺」と書かれていました。

中国浄土教三祖の寺として、知恩院が善導大師像、東本願寺に曇鸞大師像、西本願寺が道綽禅師像の大掛軸を寄進しており、その堂塔を三聖殿と称していましたが、現在はその大掛軸の前に木像も安置されております。

現在中国では、この寺を浄土宗門の祖庭として大切に保全、管理されており、更には新しい堂塔なども建設されて発展、拡大しています。